昔のお話

かみなりさま

小さい頃大好きだった絵本が「だるまちゃんとかみなりちゃん」。我が家には初版の薄い本があった。これはどなたかからいただいたものだが、私はこのお話が大好きでよく親に読んでもらった。当然自分でも読んでいたし、今も話の内容は…うろ覚えかも。落ちてきたかみなりちゃんをだるまちゃんが空に戻そうとするお話じゃなかったか…確か空に戻ってだるまちゃんは感謝されるって話だったと思うが…(あまりにも漠然とし過ぎだろ)。絵がとてもかわいらしくて、こんな雷だったら許してやる、と思っていた。

実は私は実際の雷が大の苦手だ。

稲妻を見るのもイヤだが、雷鳴が聞こえると悲鳴を上げてしまうぐらい雷が嫌いだった。家の中から見るのもイヤなのでカーテンを閉めてしまう。雷が鳴りそうな真っ暗な空を見るのもイヤだし、雷が近いと外に出るのもイヤ、帰宅する途中で雷が鳴り始めると通り過ぎるまで店などでやり過ごすほど雷が苦手。

まだ実家にいた頃すぐ近所の電柱に雷が落ちた事があったので、それを思い出すとさらに雷がイヤで仕方なかった。落ちる前から窓ガラスがビリビリ振動するほど雷鳴が響いたこと、落ちた瞬間閉めたカーテンを貫いて室内真っ白な光になり、同時に音にならないブシュっという振動とほぼ同時に聞こえたすごい雷鳴…今も思い出すとぞっとする。

二十代前半で外回りの仕事に就いた時の事。

夏の天気の良い朝から頭痛に見舞われる事が多くなった。私は夏バテもひどい方なのでこんなのイヤだなあ、と思っていた。ところがある日同じ職場の同僚から「タピアンが頭が痛いって言ってる日ってさ、午後になると必ず雷鳴ってない?」と言うのだ。

え?と思って気をつけてみたら、どんなに天気が良くても確かに午後や夕方に雷が鳴っている…本当かよ…と思いながら一年、二年…三年も経つとほぼ100パーセント頭痛天気予報が当たるようになってしまい、雷を避けながら外回りをする事までできるようになってしまった…。午前中に外に出る私を見て、午後から出る予定の同僚が「傘持っていこう…。」とぼそりとつぶやいたりしていた…。

一人暮らしを始めてからは何としても帰宅しなければならない事(家事がたまってるとか、ハムスターや猫がいるとか)があったので、どんな手段を使ってでも雷が鳴る中帰宅するようになった。ひどい雷の時はタクシーを使った事もある。そのうちにイヤでも雷の中を走って帰ることができるようになった。この頃にして二十代後半…。

しかし近所迷惑をかけながら、だ。雷鳴が聞こえるたび悲鳴を上げてたので、何事かと思って出てきた帰宅途中にある家の方が笑いながら雨宿りをさせてくれたことまである…。その方には今も感謝している…。

何とか一人で雷雨の中家に帰れるようになってからは、夏になっても朝から頭痛を感じることが少なくなってきた。そのうちだんだん頭痛自体しないようになっていった。

ところが三十代前半でまた外回りの仕事をするようになってから、またも夏場の頭痛が復活。頭痛天気予報は見事に当たるようになってしまった。「今日は雷が鳴るぞ…。」とつぶやくと、最初は信じてくれなかった職場の人たちもあまりに当たるので「どういう特殊能力だよ…。」と驚くばかり。私だって好きでこんなになってるわけじゃないよ。

そのうち同じ職場で内勤になったが、やはり夏場の頭痛は続いた。そしてその職場を異動になった翌年からはそれほどひどい頭痛を感じることはだんだん少なくなっていった。しかし、だ。頭痛はしなくなったものの雷が鳴りそうな日は朝から何となく調子が変だったりして、「今日は雷が鳴るかもな…。」というのはいまだに何となくだがわかる事がある。昨年の夏はちょうど妊娠中でつわりもひどい時期だったため、ほとんど体調は変調状態だったが、その変調とは違う説明のつかない調子の悪さが結構毎日あり、よく考えてみるとそれはあの激しい夕立の前触れだったのか…と思ったりする。

さて、家にひきこもりがちの今年もまた雷予報ができるのだろうか…。

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入学試験の思い出は?

ブログ記事を書こうとしたら「ブログネタ」のところに「入学試験の思い出は?」とネタが出ていたので、そのままタイトルにしてみた。

入学試験の思い出といえば「バケツリレー」しかない…。

もう20年ほど前の事になるだろうか。ある大学の試験を受けに行った。ここは私にとってはラストから二番目の試験。ある意味では全日制の大学ではラスト。

実はこの時点で既に就職が内定していた(大学受験が第一希望であることは就職先は知っていたが、落ちた場合は仕事をしながら大学へ通う事で内定を取っていた)ため次の試験は二部の大学の試験の予定だった。

すごいボロい大学だったので受験会場は死ぬほど寒かった。暖房の効きも非常に悪くて絶句。もともとボロいというのは知っていたので冷えないよう万全の用意をしていったものの、あまりの寒さにコート着用の許可を受けて受験した記憶があり、試験官も気がついたら「遠慮なくコートを着てください」と言っていた。後で知ったのだが私の受験した教室は暖房が故障していたらしい…。

寒いのでトイレも近くなってしまう。試験時間はそれほど長くはないのだが、一科目終わるごとにトイレに行きたくなる。

二科目終わってすぐトイレに走ったところ、先に入った人が何やらうろたえている。はて、トイレの中に何か大きいものでも置き忘れてあったのかと思い聞くと「水が流れない…。」

私も含め先頭近くに並んでいたメンバーは「えええええっ!」レバーを押してみるが確かに水が流れてくれない。真ん中あたりの人が機転をきかせて「後ろの方の人は他の階に行った方が早いかも!」と声をかけてくれた。後ろの方の人は上へ下へと散って行った。

先頭付近のメンバーが誰からともなく「バケツリレーするか!」と言い出し、トイレからバケツを持って来て水を流した。気が効く受験生がいて男子トイレからもバケツを借りてきたので、一人入るたびバケツで水をジャーッ。

見ず知らずのメンバーで「とにかく多くの人が入れるようにしよう!」と必死に。最後の方は「え~い、水も体力ももったいないから二人分トイレしてから流そう!」「男子トイレの個室も貸して~っ!」と…。試験官にトイレの故障を知らせに行ってくれる人、トイレ故障中と他の階へ誘導をする人と、示し合わせてもいないのにみんなが協力して故障トイレの対応をして15分…。

こうして休み時間内に並んでいたメンバーは全員何とかトイレを済ませることができた。バケツリレーをした私たちも時間内に教室へ戻る事ができた。

三科目で試験が終了。試験が終わった後は誰からともなく「今回の受験何だったんだろう…。」「できたできなかったとかじゃなくて、すごい経験だったよね…。」「普通受験会場でバケツリレーなんかするか?」「何か教室もすごく寒かったし…。」と口々にぼやきが…。

こうして試験会場を後にした私。おそらくもうここに来る事はないんだろうな、とバスに乗り大学の最寄り駅まで帰ってきたときに思った。

その後4年間この大学に通う事になり、受験の時に感じた以上に学校がボロい事をさんざん思い知らされた私だった…。大学自体は第一希望だったので贅沢は言えないのだが…。

実は通っていた高校の校舎がすごくボロくて危険建築物みたい(在学中に地震で一部壊れた事があり危険建築物そのものだったという話もある)だったので、大学はもう少しまともだろうと思っていたら、もっとボロかったのでびっくり仰天。オンボロ校舎で過ごした通算7年間だった…。

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おみくじ

今年は初詣すらしなかった私。初詣の際には神社でおみくじをひいたりするが、おみくじを引いても大吉が出た事は今までの一生で一度しかない。

その大吉は高校の卒業旅行で奈良に出かけた時ひいたもの。今も現物はどこかにしまってあるはずだが、神社の人もびっくりする内容のおみくじで、大吉の中でも最高のものだとか。滅多に出るもんじゃないと聞いてしばらく持ち歩いていたのだが、その後大事にしまいこんでしまった…出てこなかったら意味ないんだが…。

それまでおみくじなるものはひいた事がなかった。なぜなら高校の修学旅行の時、おみくじであり得ない体験をしたからだ。

2年生の頃京都・奈良へ修学旅行に行った。当然ながらグループ行動という事で、当時14人だったクラスの女子は7人ずつの2班に分かれ、京都を回っていた。私はその日1つの班の班長になってしまっていた(班長はその日ごとに交替することになっていた)。

北野天満宮に行き、来年の受験に備えて合格祈願をしたいという要望が一部班員からあり、北野天満宮を散策コースに入れていた私たちの班。ここで友人Ⅰがおみくじをひくと言い出し、それに友人K、Sが同調したため、私も含め残り4人はいっしょに天満宮の中を歩き回っていた。

そのうち友人Ⅰが不機嫌な顔をして戻ってきた。どうしたのか聞くと「ひいたおみくじが凶だってさ…。」とむっつり。おみくじをひかなかった4人で大爆笑。「日頃の行いが悪いからだろ?」「まあそういう事もあるさ。気にしなさんな。たかがおみくじじゃないか~。」とお気楽に話していた。

その後友人KとSがまた無言で戻ってきた。やはり機嫌が悪そう。友人Ⅰと残り4人で「何機嫌悪そうに…。」友人KとSが見せたおみくじには「凶」の字が…一瞬5人とも言葉を失った。

「…って事はさ、3人連続で凶が出たって事だよね…。」「おいおい、何それ?最初は笑ってたけど、これ笑い事じゃないんじゃないの?」「まさか、偶然だろうけどねえ…。」さすがにおみくじを引かなかった4人ともフォローの言葉しかなく…最初に大爆笑された友人Ⅰは「お前ら覚えてろ!」と激怒していた。結局悪い結果のおみくじは結んでいくといいとかいう話を聞き、3人はおみくじを結んで残していった。当然残りの4人はおみくじを引かなかったのは言うまでもない。

ここまでなら笑い話で済んだのだが、問題はその後だった。

どうせここまで来たなら受験も無理だし、入れるわけがない大学でもあるので京都大学でも見に行こう、と無責任な事を言い出す者が出て、散策のノルマをとっくに終わっていた私たちは京都大学までバスで出かけていった。実際には校門をくぐり(しかもあれは裏だったと思うが)、中をちょっとだけ見て帰ってきただけだったのだが。

そして宿に帰ろうと帰りのバスに乗ったところ、友人Ⅰが何やら慌てている。どうしたのか聞くと「財布がない…。」「えええっ!?」6人とも驚くしかなかった。

「おいおい、どこまで財布持ってたか記憶ある?」「おみくじ引いた後バス乗ってるはずだからそこまでは持ってたはず…。」「だとしたら大学構内か?」「いや、バス二回乗ってると思うけど、どっちも乗った時は確か班長が活動費から払ってるよね。」「あ、そうだ。私が払ったよ。」「って事はもう天満宮出た時落としてたんじゃ…。」「とにかくまだ時間があるから来た道戻ろう。」と班全体はパニックに。

友人Ⅰは一言「凶のおみくじってこういう事だったんかい…。」と不機嫌になってしまった。さすがにこの時は6人とも言葉が出ず…一応班長だったのもあり、副班長とともに宿についてすぐバス会社に電話連絡し、行った場所にも電話で確認したが財布の落とし物は出ずだった…。その財布に友人Ⅰの全財産が入っていなかった事だけが救いだったとしか言いようがなかった。

災難はその翌日も続いた。宿から三十三間堂が近いと聞いて、朝一番で歩いて出かけて行ったのだった。この日は班長からはずれお気楽な立場の私、クラスメイトに似た仏像を見て友人と大笑いして楽しんでいた。

三十三間堂を出てしばらくしてから、昨日おみくじをひかなかった友人のうち一人と「ここ拝観料無料だったね。」と話していたところ、友人Kが「え??拝観料あったよ…。」

ちょっと待てよ!と思い友人Kに聞いたところ、友人SとⅠはきちんと拝観料を払っていた。残り4人は拝観料を取られていなかったのがわかり呆然…。偶然にも拝観料を払ったのは昨日おみくじをひいた3人…。

「え~何でそうなったんだよ!」と3人は怒った。私たち4人も「何で?」とわけがわからず唖然。後で考えると先に入った4人の身長はやや低め、行動も3人に比べたら落ち着きがない。ただその中で一番大きい私でも身長は160センチあった。拝観料を払った3人は私より5センチ以上身長が高かったとは言え、そうだとすると拝観料を取る人が私たち4人を見落としたか、中学生以下と勘違いしたかとしか思えない。

「160センチある人間を見落とすか、普通?あり得ない。言動見てて小学生と勘違いしたんだ。」と友人Ⅰは言う。「んなバカな。同じ制服着てて小学生と勘違いされるわけがない。」と一番身長が低い友人Tは怒った。「拝観しながらどんぐりころころ歌ってたじゃん。」「迷惑になる場所では歌ってない!」「奈良で鹿せんべい食ってたくせに。」「あんただってたこ焼きほうばってたでしょ?」と友人同士の言い合いはだんだんエスカレート。「じゃ今から戻って拝観料払いに行ってこよう。」と私が言うと「時間考えろっ!そんなの無理だってば!!」と友人Sが言うので4人とも戻るのはやめてしまった…。

そしてその後もなぜか凶のおみくじをひいた3人にとってはことごとくいろいろな事が起こり、班内では4対3で言い争いが頻発したのは言うまでもない。おかげでこの修学旅行で奈良、京都の何を見たのかあまりはっきりとした記憶がない…。その後大人になって何度か京都へ行く事があり、やっと京都を楽しむという事の意味がわかってきたのである。

たかがおみくじだが、おそろしいものだと私は思うようになり、大吉をひいた後は最近までしばらくおみくじをひけないままの私だった…。

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親子の関係

ベビー用品を買いに行って思ったのは、父が間違いなく孫甘やかしじいさんになるのは確実だろうという事だった…。

母の話では私の事も弟の事も小さい頃は本当にかわいがってくれていたらしい。

ただ私、弟の両者とも物心ついた頃にはわりと何事にも口うるさく、行儀が悪かったり悪い事をしたらしっかりと怒る、かなり厳しい父親だったはずなのだが…。なので子供をうんとかわいがっていたという父親の姿を私は全く覚えてない。

もともと父はあまり人をほめたりが得意でなく、照れ隠しにしてしまうタイプだったのかもしれない。私と父とは性格的に似ていたせいか、反抗期の頃はいがみ合う事も多く、成人する頃まで関係が良好とは言えなかったはず、だ。社会人になってから関係はだいぶ変化したが、私が実家から完全独立した20代後半あたりから関係が好転し、定年退職し、数年前に完全にリタイアしてしまってからは全くそれまでと違ったお互い干渉しあわない関係になってしまった。おそらくもう独立した以上余計な事は言わない、しない、を貫いたのだろうと今になって思う。父はおそらく親離れ、子離れをどこかで意識しており、そこをきっかけに子供との関係を変えてきたのだろうと思う。

厳しかった父に対し、母は比較的子供には優しく接していたと思う。両方ともが口うるさく厳しかったらもう子供としては追い詰められてしまうだろう。その点では子供の頃は父より母の方にくっついていた事の方が多かったと思う。むしろ成人する頃までは父より関係は良かったかもしれない。社会人になってしばらくはそんなに関係も悪くはなかったのだが、独立してからはかえって父とは反対の関係になってしまったのが気にかかる。

独立したら余計な事は言わない、しないの姿勢を強くした父とは逆に、母は余計な事を言う、したがるという状況になってしまったのだ。さらにそれは最近になって強くなってきてしまっている。どうやら現在付き合っているお友達と娘さんとの関係を参考にしているようなのだ。それが私から見たら母子依存の強い母娘…子離れできずしょっちゅう娘の婚家に通う母親とか、夫はほったらかしで、夫の実家には孫を連れて行かないのに自分の母親としょっちゅう旅行や買い物に出かけ、孫に会わせている娘…そんなの真似などしてほしくはないし、それを自慢にしてもらいたくもないのだが…。

私には私より先に結婚した弟夫婦がいるが、母は一ヶ月に一度ぐらいいっしょに外食したいとか言っている。どうやらこれも付き合っているお友達の家庭を参考にしているようだ。弟夫婦は共働きで私たち夫婦より勤務時間も長く、仕事内容も厳しく大変だ。そういうのを全然考慮しないで弟夫婦にそういう関係を強制しようとしたり…無理のある話なのでそれを父と私とでそれとなく言っても最近は人の話を聞こうとはしない。そうして一ヶ月に一度付き合わされている母のお友達の息子のお嫁さんが陰で「いろいろうざい!」と夫の母親の悪口を言っている事など、実際の出来事の裏を読もうとしないのだ。そうやって自分に都合の悪い話も全然聞こうとしないのだから困る。ちなみに弟の妻はそんな事をする裏表のある人間ではないので、母が弟夫婦に対してあまり余計な事を望んだり言ったりしないでほしいと思ったりする。

私は母に対しては子離れするタイミングを誤ったか!と今はちょっと反省の念あり…。親子の関係は年とともに変わっていくのが当たり前とは言え、私も考えていなかったような形で関係が変わっていくのに驚くばかりだ。

父はむしろ子供と距離を置き過ぎのような気もしなくはないが、母は子供との関係を求め過ぎる。何だか不思議だ。それとも私の感覚がおかしいのだろうか、一般的には母娘の関係って私みたいな感じ方ではないのだろうか…。

おなかの中のちびがやがて出てくるが、親子としての関係はどうなっていくのだろう。

最初はもうただ何も出来ないちびの世話をするしかないと言え、大きくなっていくにしたがってちびのできる事は増えていく。その時どう接していけばいいだろうか、どんな関係になっていくのか、まだ先の話とは言え考えてしまう事はある。当然どう接していくか、どんな関係を築いていくかは夫ともいっしょに考えていく必要はあるだろう。

でも間違いなく言えるのは私はあくまでも私で、今おなかにいるのはちびという人間そのものであって私の分身ではないし、夫の分身でもない。ちびの人生は最終的にはちび自身が歩いていくのだ。ちびの支えになったり、援助をしたりはするものの、あくまでもちびはちびなのだ。そこだけは忘れないようにしようとなぜか思うのである。

…なんて言っててそんな簡単には物事かたづけられないんだろうな…。

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お酒はほどほどに!つづき…

前日の記事にはまだつづきが…。

翌週月曜日、私の係は全員が顔を揃えた。その朝私の前に座っていた先輩が一言。「金曜日はどうも。あのさ、あれから俺どうやって帰ったのかわからないんだよな…。」

先輩は私と同じく一次会で帰ったのだが、もともとお酒がほとんど飲めずその日もたいして飲んではいなかったはず。自転車に乗っていた記憶はあるが、本人の話では、どこをどう通って帰ったか全く覚えていないのだと言う。おまけに足をすりむいていたり、手にあざがあったりしたというのだから、おそらくどこかで転倒したかぶつかったかしたんじゃないかというのだ…。

私も電車に乗ってから自宅に帰り着くまで全く記憶がなかったことを話すと「あの日はみんなすごかったよな。一次会では最初から大騒ぎだったし、酒のペースも早かったし、とにかく普段からぎゃあぎゃあうるさい係だけど、それを通り越してもうどうしようもないくらいとんでたもんな…。」と先輩は言っていた。私もその光景は覚えているし、誰もが普段以上に笑ったり騒いだりハイになっていたのは事実だった。

その後他のメンバーとも話をしたところ、おそろしいことが判明したのだ。

私と同い年の同僚は二次会後に消えてしまったそうだが、二次会に行ったのは覚えているがどこの店に行ったのか全く覚えていないと言う。さらには三次会に連れて行こうとしたら、わけのわからない事を言って駅とは反対の方向へ歩いて消えていってしまったと三次会出席者はいう…。彼の自宅は電車でないと帰れないはず…だ。随分経ってから彼は道に迷ったあげく、駅まで出たものの終電がなくなって困り果て、当時付き合っていた彼女に助けを求め、彼女の実家に泊めてもらったのだとわかった。その彼女は現在彼の妻なので、これも彼女との結婚祝いの飲み会の席で笑い話になったのだが…。他の同僚は彼の携帯電話で連絡したりもしたが出てくれず、この時は皆本気で心配していたそうだ。

三次会に行ったメンバーは三人だったはずだが、そのうちの一人、私の同期は三次会の記憶がまるで抜けており、自分が飲んだのは二箇所だったと断言していた。他の人に三箇所だったと言われても「絶対そんな事ない!」と30分以上言い張っていた。レシートを見せてやっと三箇所だった事を認める有様…。一人が消えてしまったのはしっかり覚えていたのに、その後さらに飲んだ記憶がないというのだからびっくりだ。彼はこの日妻の実家に泊めてもらったそうだが、やはりどうやって帰ったのか記憶がないと話していた。タクシーで帰った事を残りの人に聞かされて驚いていた。

もう一人、私と年が近い先輩は「二次会以降お金を払った記憶がないので、払わなくっちゃ…。」と言いながらお財布からお金を出していた。すると三次会にいっしょに行っていた最後の一人、当時の新人さんが「何変な事言ってんですか。お金はまとめて自分で全部支払いしてたじゃないですか…。まさか覚えてないんですか?」と。先輩は自分で全部のお金を払っておきながらそれを全く覚えていないという。「財布の中身が極端に減ってるだろうが!」とみんなから突っ込みをくらい、そこで初めて「あ…万札が一枚もない…。」と気がついた。その後慌てたのは三次会出席者。みんなお金を先輩に払っていなかったのだ。

「何だよ、みんな揃って記憶喪失かい…。まともに記憶があるのは新人の彼だけなんだ…。」と上司が言うと、お金を払ってないと勘違いしていた先輩が一言。

「いや、こいつなんて二次会、三次会ってほとんど寝てましたよ…。最初と最後しか記憶ないんじゃないかな?」彼もお酒は弱かった。二次会でカラオケをやった事も覚えてない、何を食べたかも記憶にない、どの店に行ったかを覚えているというだけ。詳細を聞くと何を話したかとか全然覚えてなくて、ほとんど寝ていただろうなあと思われる…どうも一次会の途中から半分は寝ていたのではないかと思われた…。

上司を除く係全員が壊れた飲み会なんて初めてだ…。これは係員全員の汚点だという話になり、しばらくの間「飲み過ぎには注意しましょう!」と何かある都度上司に言われるようになってしまったのだった…。

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お酒はほどほどに!

もう5年以上前の事になるが、職場で忘年会があった。

当時いた係はわりと人間関係が良くてまとまりがあった。その忘年会の日の昼過ぎに職場で大きなトラブルがあり、係全員でそのトラブルに対処する事になった。夕方までにそれは驚異的なスピードで解決し、忘年会は予定通り決行されることとなった。

その日は係の忘年会。昼過ぎからトラブルにかかりっきりだった私たちは、おいしい料理とお酒(この時は会場が偶然料理もお酒もおいしいお店だった)で調子に乗って飲んで食べてしまい、一次会の段階で、バイク通勤の上司以外(当然この人だけは飲んでない!)全員がべろんべろんになっていた。

私と上司、一人の係員は一次会で帰宅、残り四人は二次会へ、そのうち一人が二次会で消えてしまい三人が三次会まで行ったそうだ。ここまでなら普通の忘年会だ。

私はお店の最寄り駅までみんなで歩いていった記憶もあり、一人で電車に乗って座ったところまでは覚えているのだが、その後どうやって帰宅したのか全く記憶がない。

翌日土曜日の朝起きると、部屋の中に歯ブラシと野菜ジュースの飲んだパックが転がっていた。私は服を着たままだ。トイレに入るとブーツが揃えて脱いであった。玄関に行ったらコートが脱いであり、カバンも置いてあった。

その日は出かける予定があったので駅まで歩いていくと、おまわりさんに会った。するとおまわりさんが声をかけてきた。「あの、無事家まで一人で帰れたんですね…。」

何のこっちゃと思い話を聞いたところ、昨晩交番へやってきて「おうちへ帰りたいんだけど帰り方わからな~い。」と私が言ったのだそうだ。住所を聞くときちんと答えたという事で地図を見せて説明したと言う。危ないと思ったのでタクシーを呼んだ方がいいと言ったら「一人で帰れるも~ん。」と制止を振り切って歩いて行ってしまったという…。

一瞬青くなったがその場はお礼をきちんと言った…。

その後電車に乗りいつもの乗換駅の改札に差し掛かったところ、駅員さんに呼び止められた。「昨日は無事帰宅されてるんですね。」と。

は?と思いまた話を聞いたら、昨晩改札で「○○駅に行きたいんだけどどっちの電車に乗ったらいいの?」といきなり質問してきたんだそうだ。説明したら「ありがとう~。」と言って電車に乗り込んでいったという。

また青くなったがその場でもお礼をきちんと言った……。

やがてメールが来た。当時付き合っていた彼(今の夫)からだ。無事家に帰れたのか等かなり心配している内容。何事かと思ってメールの送信履歴を見ると…青くなった。

私は何を考えていたのか、飲み会が終わり帰宅してからもかなりの間変なメールをたくさん彼に送っていた…。彼は驚いたようでどこにいるのか心配していたようだが、私は居場所を全くもって知らせてないため、どうにも動きようがなかったらしい。ただ帰宅はしたと連絡があったため安心したようだが…。

野菜ジュースは彼に「飲んでおいた方がいい」と言われて飲んだものだとわかった。

いったい何でここまで酔っ払ったのか私もワケがわからない。もともとお酒は弱くそんなに飲んだ覚えはなかったのだが…。おいしいお酒が出る時は危ない!と思ったので、その後は調子に乗らないよう気をつけるようになった。

お酒を飲んでわけがわからなくなったのは今までこの一回限りである…。

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出会いと別れの季節

春は出会いと別れの季節。それは昔から言われている話だ。

意外な事に秋もそんな季節だったりする。夏休みが終わり、同級生が親の転勤に伴い転校していく、その逆に新しく転校してくる子がいる。学校の頃は出会いと別れが必ずこの時期にあった。

今回はそれとは少し違う。

うんと昔高齢者と関わる仕事をしていた頃の事。秋になってから必ずと言っていいほど相次いでお別れがあったりした。夏の暑さが一段落し、涼しくなった頃に「え?ウソでしょ!?」というような訃報が続いたり、元気だった人が突然体調を崩し始め、回復していたはずなのに、そのまま天国へ行ってしまうなど驚く事があった。

そう言えば私の父方の祖父も、母方の祖母もこの頃に体調を崩し、それが致命的なものとなりその年の秋にこの世を去っていった。

実家にいた頃近所には犬や猫がたくさんいたが、その姿が見えなくなるのは不思議な事に涼しくなり始めてから。夏の暑い日外で涼んでいた姿を見かけたのに、どうしたんだ?などと思っているとお別れの知らせが…それもたいてい秋になってからだった…。

食欲の秋、芸術の秋、読書の秋、という言葉があるが、過去の経験の中でどうしてもお別れも多いのが秋、というのが私の中にはある。

お別れの思い出が多い中で、唯一出会いの思い出を持つのが我が家の猫ごろにゃん。2001年9月下旬に道端で出会い、それからいろいろあって我が家の猫となった。この猫も今年は7歳。出会いの思い出とともに刻んできた歴史が積み重なるとともに、いつかは来るお別れの事がふと頭をよぎる事がある。子猫時代に野良をしていた頃ひいていた風邪が原因で鼻が利かず、食物や薬品にもアレルギーを持つ。食物を吐き戻す事もわりとあり、さらには大腸炎を起こしやすいなど決して体が丈夫とは言えない猫だったりする。健康な猫を飼っていたら経験しないような事も何度かあったが、それでもここまでいっしょに来た。これからどんな事が待っているのだろう。どこまでいっしょにいられるのだろう。

そんな出会いや別れを繰り返しながら人間は生きていくんだな、などとふと思う今日この頃だったりする。

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肉まん食べたい

つわりの症状はだいぶ軽くなってきたものの、好きだったものが食べられなくなったりして唖然とする事も増えた私だった。おまけにおなかが大きくなってきたせいで胃が圧迫され普段食べている量の半分くらいしか一回に食べる事ができなくなった。その分ちまちま食べているので体重は少しずつ増加に走り始めた。かろうじて60キロ(妊娠前から既に58キロあった。身長が160センチくらいとは言えちょっとここ数年は丸々としていた)突破してないのが救いだ。

そんな私が今日突然肉まんが食べたいと思った。スーパーに行ってみるが小さい肉まんしか売ってない。それを買ってきて半分食べた。

実は関東でも横浜の中華街に行けばおいしい肉まんが食べられる。ここには凝った肉まんがたくさんあってどのお店のもそれなりにおいしい。

しかし数年前夫と大阪に行ったとき食べた豚まん、あれは本当においしいと思った。大阪は全体的に食べ物がおいしいところが多いと感じたが、豚まんのようにシンプルなものほど余計おいしいものでないと通用しないのかもしれないなと…。

大阪で食べた豚まんは二種類。一つは蓬莱551。もう一つは二見の豚まんだ。

蓬莱551の豚まんは弟夫婦も大好き。我が家が大阪に行った後お土産に買ってきたのを食べ終わり、その後わざわざ取り寄せまでして食べていた。これは一度に二つくらい食べられる感じの豚まん。私たちも大阪に行った時はお土産として買って帰り、家で楽しんで食べた。味付けがあっさりしているのか数食べる事ができる。

二見の豚まんについては、大阪のガイドブックの隅の方にちょこっと載っていた。それを私の食い意地センサーが見逃さずキャッチした。お土産がないようだったのでこれはわざわざなんばまで行って食べた。これが予想外においしくて夫も私も大感激!この豚まんの方があんの味が甘めだったが、皮は蓬莱551のものより厚く感じた。大きさも少し大きいような気がしたので一個食べただけで大満足だった。

個人的には私は二見の豚まんの方が好きだったりするが、どちらも同じくらいおいしい事には変わりはない。

最近になって二見の豚まんも全国発送してくれる事がわかった。もう少しして温かい豚まんをおいしく食べられる季節が来たら、取り寄せしてみようかな。

でも現地で食べるのとお土産を家で温めて食べるのと何だか感じが違う。やはり現地で食べるとおいしさが増すように思うのは気のせいか?

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おかしなアサガオ…

今年は西洋アサガオの種を購入した私だが、種まきの頃に体調をおかしくしてしまい蒔きどきを見事に逃してしまった。種は翌年でも発芽するとは言うが…。今からでも間に合うのだろうか…。

小学校の頃アサガオを育てたことがあるが、夏休みの間に枯れてしまった。赤い花が咲いた記憶はあるが、アサガオは育ててもうまくいかないものだと思っていた。なので我が家では育てるのを敬遠していた。

そんな私が5年ほど前にアサガオを育てた。いただいた種だったのだが大輪の花が咲くというもので、色は何色が咲くか咲いてからのお楽しみの混合のもの。5月に8粒の種を蒔いて、全ての種が発芽した。そのまま間引きもせず支柱を立てて適当に育てた。途中で枯れたものもあったため、結果的には4本の苗が育った。

アサガオの花の色と言うと、濃い赤紫や青紫、紫色などが定番のように思っていた。そんな花が生垣に咲いていたり、あんどん仕立てになっているのを見る事が多かったからだ。おそらくそんな花が咲くのだろうと勝手に思っていた。

ある日の夕方アサガオに蕾を見つけた。蕾の色から青っぽい花が咲きそうだなと期待して翌朝張り切って早起きすると、私の目に飛び込んできたのは何とも薄い水色の花、見方によってはグレーにも見える…。おいおい、こんな色の花って滅多にないんじゃないの?

そのうちまた別の色の蕾が出てきた。今度は赤っぽい花が咲きそう。そして翌朝同じように早起きすると「へ?」。咲いた花は薄い小豆色…。何だこりゃ。あとでアサガオを毎年朝顔市まで買いに行くという職場のアサガオ大好きおじさんに聞いてみると「そんな色の花はめずらしいぞ。大事に育ててみたらいいよ。滅多に見かけない色だもの。」と言っていた。

その後アサガオは水色だの小豆色だのとどんどん花をつけたが、その後も白い覆輪に紫が入った花が咲いたり、もっと驚いたことに青の絞りの入った花まで咲いてしまった。葉も斑入りの株があったりと手をかけてなかったのに見事なものだった。アサガオ大好きおじさんにその話をすると「本当にめずらしい花ばかりじゃないか?それだったら俺がほしい!種が採れたらくれ。」とまで…。一見するとかなり地味だが、味のあるアサガオの花を見られた夏だった。

しかしなぜか種がほとんど実らず、種を採ることができないままアサガオのシーズンは終わってしまったのだった。その年限りだったとは言え、起きるのもイヤになるほどの暑さをふっとばすようなアサガオの花を毎朝楽しみにしていたおかげで早起きし、仕事に出かけたり、家事を楽しんだりした夏だったなあと思った。

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風疹

前回の検診で血液検査をした。いろいろな病気を調べるようだがその中に風疹の免疫があるか調べるものがあった。おそらく今は私も免疫を持っているはずだ。なぜかと言うと私は4年ほど前に風疹にかかっている。

4年前の風疹は、手術のため入院した病院でかかってしまったのだ。

私は学生時代からの痔持ちだった。痔とは共存していたのだが、4年前のある日突然それが大きくなり、さらに出血が始まり、それが原因で貧血を起こしてしまうようになった。これはおかしいと思い近所の胃腸科の医院に受診したところ、それは痔ではなく直腸のポリープの可能性が高いとわかった。貧血を起こすようなポリープ、しかも突然大きくなったと言う事であっと言う間にその病院に入院、手術となってしまったのだった。

入院した部屋は6人部屋だったが、患者同士があっと言う間に仲良くなってしまい、二週間の入院期間、ホームシックにはならずに済んでしまった。私が入院した時には既に4人の患者さんがおり、4人に見送られて手術室まで運ばれていったのを覚えている。

手術は無事終わり、ポリープも細胞検査の結果悪性ではないとわかった。それはそれでよかったのだが、問題は手術を終えた翌日のこと。

朝起床すると何だか変だった。トイレに行こうとして歩くとふらふらして壁にゴン。関節もあちこち痛い。さらにしばらくするとだんだん頭痛がひどくなってきた。唯一楽しみにしていたごはんもあまり食べたくない。ここの病院でさらに3年ほど前に虫垂炎の手術も受けたが、その後にこんなのはなく、翌朝には点滴棒を引っ張って元気に歩いていたはずなのに…と思っていた。

朝の検温の看護婦さんがやってきて「あれ?タピアンさん熱が出てるね。」と言った。私の体温は37度を超えていた。どうりで体調がおかしいわけだ。「手術の後に熱が出るなんて事は普通ないよね?どうしたんだろう?しばらく様子を注意してみてもらえるよう申し送りしておくね。」と看護婦さんは言ってくれた。その日は夕方に近づくにつれ起きているのが面倒になり、結局一日のほとんどを眠って過ごしていた。

翌朝起きると熱は下がり、頭痛もウソのようになくなっていた。ごはんも食べられるようになりすっかり元気になった私だった。「あれは何だったんだろうね。」と同じ病室の人と話していると、隣のベッドの人が「そう言えば私も昨日体調がおかしかったのよ。やっぱり熱があって…。」と言う。その人は私の手術の一週間前にヘルニアの手術をしたばかりだった。

数日すると私の隣の人が「大きな発疹ができて気持ち悪い」と言い出した。確かにまだら状の発疹ができている。「何だろうね。」とみんなで話していたら、その日の午後その人は診察室へ呼ばれ血液検査を行ったと言っていた。

その翌日、点滴を打とうとした看護婦さんが「あれ、タピアンさん、それは…。」と私の体を見て言った。私にも小さな赤い発疹が顔を除いてほぼ全身あちこちに出来ていた。「ありゃ、何だこれ?」と私。その日の午後私も診察室に呼ばれ血液検査を行うはめになった。

そして一週間が経った頃…隣の人が「はしかだって…。」と顔をひきつらせて診察室から戻ってきた。その後私が呼ばれた。まさか私もか?と思っていたら「風疹」と検査結果を告げられた。あの熱はそういう事だったんだ…やっと納得できた。

それを聞いて病室内で悲鳴が上がったのは言うまでもない。検査結果がわかったときには、救急車で運ばれてきた虫垂炎の手術直後の9歳の女の子が病室にいた。「おいおい、子どもに感染したら大変だよ!」というのでその女の子も血液検査をすることになってしまったのだった…。女の子は幸いにもどちらも免疫を持っていたそうだ…。

後で聞いた話だが、私が入院したのとほぼ同じ頃、同じ病院にはしかと風疹の患者さんがいたらしい。症状がかなりひどい患者さんだったので隔離をしたのだが、結果的に院内感染になってしまい、手術直後で抵抗力のなかった私と、同じように手術から一週間くらいしか経っていなかった隣の人が感染してしまったということらしい。

病室へ見舞いに来た両親に「何だ、私は風疹のワクチン打ってなかったの?」と聞くと両親はきょとんとしていた。「そんな事はない、予防接種はきちんとしているよ!」と。「じゃあ何で私はここで風疹にかかったんだい?」と言うと、両親ともに「えええ?」と…。

納得がいかなかった私は看護婦さんにも「何で?」と詰め寄ってしまった。ワクチンだとまれに免疫ができない人間がいる、というのをそこで初めて聞いた。何それ?って感じだった。

そういえばはしかはともかく、水疱瘡は幼稚園の頃集団感染した記憶がある。おたふく風邪は小学校6年生までやっていなかったからワクチンを打った。ところがその後クラスのみんなから「いつもより顔が丸い」と言われた。おかしいなと思っていたらそれがおたふく風邪発症だった。そしてクラスに数人おたふく風邪が出てしまい、しばらく「おたふく」と呼ばれた事まである。つまり発症したために免疫ができたようなものなのかもしれない。

結果として二週間で退院できた私だったが、風疹にかかっていたことで一週間の自宅軟禁を余儀なくされ、さらにこの当時職場に妊婦が3人もいた事から出勤停止にされてしまい、「とにかく治るまで絶対に出てくるな!」と、入院してから一ヶ月も仕事を休む事になってしまった…。5月の陽気のいい時期だったのに、この年だけは本当に何もできずに過ぎていったのだった…。

もしもこれで風疹の免疫がないとか言われたら本当にびっくりものだ。絶対にあり得ないとは思うが…。

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